ふと考えたこと…

■■2015年2月21日■■

曾野綾子のコラムが物議をかもしている。コラムのロジックはこうだ。
1 他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい。
2 日本では,高齢者介護などのために移民政策を進める必要がある。
3 そのため,法制度をしっかりした上で移民の垣根を下げなければならない。
4 しかし,居住区だけは分けた方がよい。
5 なぜなら,一緒に住むとトラブルが起こる。
6 何でも一緒にできるが,居住だけは別にした方がよい。

この主張自体はもっともに見える。しかし,このロジックにはオルタナティブがある。1〜3までは全くそのとおりだ。問題は4〜6。居住区を別にするのではなく,居住も共にできるように相互理解を図るとか,法制度をきめ細かく定めてスーパーバイズするとか,居住区の環境を改良するなどのソリューションもあるのだ。そのような可能性に目を配りもせず居住区を別にすべしというのは,この時代に妥当なロジックとは言えないだろう。

もう一つ,4〜6の根拠としてあげているエピソードが問題だ…というよりこれが今回の騒ぎの大元だ。確かに,アパルトヘイトを称揚する部分などどこにもない。しかし,「南アフリカでの人種差別撤廃後,一軒の集合住宅で共同生活が行われた結果,大家族主義の黒人家族が水を使い尽くして水道が使えなくなり,白人が逃げ出した」というエピソードをつきつけられて,「だから人種差別を撤廃しない方がよかったのだ」という結論を推定するなと言われてもそうはいかない。この要約の前段がその結論を誘っている。だからこそ,アパルトヘイトの称揚だという批判は受け入れるべきだろう。たとえそのつもりはなくても。

それにしても,阪大外語スワヒリ語専攻在学生・卒業生有志の抗議文は他の抗議文やツィッターとはちがう。ネルソン・マンデラの述べた「許そう,しかし,忘れまい」という言葉のすばらしさと力強さに深く心が動かされる。忘れられず許されないまま,南アフリカとの関係を更新できない結末を選ぶのだろうか。


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