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■■2012年3月7日■■2012年3月6日■■2009年1月5日■■
■■2012年3月7日■■

心臓疾患があったとする。医者は,何とか心臓が働くように,現状やそれまでの経緯,その他の身体の異常に配慮しながら手立てを考える。手術に耐えられなければ,投薬を選ぶだろうし,アレルギーがあれば薬もちがったものに変える。

心臓疾患に対して,心臓があることが問題だとして,心臓をとってしまえという人がいたらどうだろう。そして,最善を尽くしている医者に対して,「そんなごちゃごちゃしたことを言ってるから,何も変わらないんだ」と言ってばかにしていたらどうだろう。普通の人にとっては,威勢がいいだけの残念な人に見えるだろう。医者にしてみれば,議論の余地もないと思って相手にしないだろう。相手にされないその人は,さらに医者がばかだと言い立てる。

心筋梗塞を起こした社会に対する処方は何だろう。それは心臓をとってしまうことなのか,あるいは別の心臓に入れ換えてしまうことなのか,それとも時間がかかっても,たとえ寝たきりになっても,なんとか心臓が働き続けるように,なんとか生きていけるように手をつくすことなのか。答は自明に思える。しかし,特に社会が閉塞状況にあるとき,多くの人はそう思わない。普通の人が普通の人でなくなって,権威主義的パーソナリティが前に出てくる。今,エーリッヒ・フロムの名著をひもとくことが必要じゃないか。

歴史的に大きな社会変革が何度かある。日本でもドイツでも。それらは何につながったか。それを思い起こすことができる何人もの人が,その不安を抱いている。しかし,いずれはその人たちの不安の声はかき消されるのかも知れない。教育は,少数の声を守る砦なのだけど,その灯火も消されてしまうかも知れない。心臓をとるような手術はしてはいけない。リーダーシップをとる人が医者とは限らないのだ。


■■2012年3月6日■■

はるか昔,「教育の制度疲労」という言葉をうっかり使って,とても強い反発をくらったことがあった。現場の先生たちから。もちろん,学校教育すべてがだめだという意味で使ったわけではなく特定の事象を指していたのだけど,聞いた側にすれば,自己の存在も含めて全否定されたように思ったのかも知れない。

あちこちで学校選択制が見直されつつあるようだ。報道されている理由は2つ。一つは,選択される学校とされない学校の差が大きくつくこと。これは容易に予想されたことだ。選択するためには,選ぶだけの違いがなければならないが,実際には義務教育段階の学校の質的な違いは明確に出しにくい。どれかの教科だけに力を入れるわけにもいかず,たとえどれかを重視したとしても時数を自由に割り当てることもできない。おのずと選択の基準は,中学校や高等学校の進学者数とかの結果やそれにつながる補習の充実度,部活や総合的な学習のプレゼンスなど。このような成果は,児童・生徒が集まる大規模校でなければ出せない。実際には,児童・生徒が去っていった学校で,1人1人に目の届いたとても丁寧な授業が行われていることもあるのに,それは選択者には伝わらない。

2つめは,学校と地域のつながりがうすくなること。学校では,社会との協同的な学びが強調されているのに,通学区が広くなることによって,児童・生徒の地域が学校と重ならなくなる。自動的に関心も薄くなる。それにつれて,地域の学校への関心も薄くなる。学校の特色は地域の特色でもある場合が多いのに,地域性が薄れる中で特色を出せと言われる学校も大変だ。

もし学校選択制を成功に導きたければ,まずは欧米の学校のように一つの方針を継続的に進めるための基盤を作ることが必要だったのだろう。例えば,学校運営のリーダーである校長の任期を10〜20年程度にすること。そもそも任期という概念も不要かもしれない。これは,校長任用の年齢を下げることも意味している。また,教員の人事権を校長に相当程度与えること。更に,カリキュラムの裁量権も大幅に学校に委譲すること。そして,学校独自のカリキュラムを開発,実施,評価,改善するための,時間・資金・人材等のリソースを十分に投下すること。このようなことが保障されないなか,制度だけ刷新したところで実効性はないということなのだろう。

学校教育が思ったように動かないという政治家は多い。首長が強くそう思うとき,強力な制度変革がもたらされることがある。しかし,それが現場の教員を否定したり置き去りにしたりするものであれば,そしてたとえ変革の意図が児童・生徒のためのものであってもそれが確実に実施されるリソースが十分に与えられないのであれば,その変革は失敗するだろうし,その失敗は世代を超えて継承されてしまう。制度が変わらない悪弊もあるが,何でもドラスティックに変えればいいというものでもない。


■■2009年1月5日■■

年末に同窓会があった。同級生の2人がアナウンサーをしている。この2人が司会担当。さすがの歯切れとうまい進行で,プロの技を感じた。アナウンサーと仕事をしていて感心するのは,10秒,20秒のちょっとした隙間を埋める言葉を,即座に繰り出す能力だ。番組収録の時には常に時間が表示されていて,それにあわせてうまく場面をつないだり締めくくったりする。競馬やサッカーの中継がうまいアナウンサーにいたっては,頭の中がどうなっているのか知りたいものだ。

ところで,箱根駅伝の中継を聞いていて,おどろいた。「18てん,まもなく2キロ」ときた。もちろん,まもなく18.2Kmを通り過ぎるということを言いたいわけだけど,小数点のあとに「まもなく」を入れる即断のすごさ。「まもなく18.2キロ」と言うよりも,まさに今その地点に近づいているという「切り取られた時間」だけでなく,選手の走るスピードまでもを臨場感たっぷりに描写しているように感じられる。こんな表現がゆるされる言語は,日本語以外にあるのだろうか…とふと考えながら,その表現力に脱帽。

一方,あいかわらず言葉で災いを招く人も続く。今日は,日比谷派遣村に対して総務政務官が「本当にまじめに働いている人たちが集まっているのかという気もした」と言ったそうだ(asahi.com)。そのことの真偽は本質ではなくて,問題は全国の8万人を超える“派遣からの失業者”なのだ。派遣村をその象徴としてみることができていないということを,自ら表してしまったというとだ。

新春なので,お笑い番組も多い。いつになく長いめの漫才や落語なども見聞きすることができた。お笑いの基本は知的な言葉の遊びだ。同級生で大学紛争のときに機動隊に石を投げていた友人が,今は病院で透析を受けているという文珍のネタは流石。笑って年が明けた。人を勇気づけたり,幸せにしたりする言葉に溢れた年になればいいのだけど。


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