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■■2001年5月17日■■2001年6月17日■■




山形大学に続いて,富山大学でも入試のミスが起こった。いずれも,電子計算機による入試業務での,プログラミングミスのようだ。金沢大学に赴任して2年目から,ずっと入試電算委員会を引き受けている。驚いたのは,大学入試の結果は,こんなところでこんなふうに決まっていくのだということだった。採点は多くの大学教員が手分けして行う。その結果が入力されて,それを大学入試センター試験の結果に傾斜をかけて,順位を出す。傾斜は学部や学科によって毎年変動するので,そこがプログラミングに反映される。それをまた学部にもどして,どこまでを合格させるか判定してもらう。ただし,判定は必ずしも全科目の合計点だけで行われているわけではない。その他の事項が加味されて,微妙に順位が入れ替わる。電算委員では,その結果を再度入力して,発表に至る。このプロセスのどこかでミスがあると大変なことになる。

6月17日付けの朝日新聞の社説には,大学教員の意識が問題で,「学生を教えるより,自らの研究を優先する姿勢がまだまだ強い。特に,入試の監督,採点や合否判定の作業は,『研究の邪魔』と,引き受けたがらない教員も少なくない。」と書かれている。確かに,監督も電算委員も,好んで手を挙げる人はほとんどいないだろう。しかし,実際には担当になった人たちはきわめて誠実に業務にあたっているように見える。金沢大学では2月の入試のために,すでに5月ごろから準備がはじまり,年末には3日間のリハーサルをやっている。どこの大学もそうだろう。では,なぜミスが起こるのか。それは,人がやっていることだからだとしか言いようがない。ミスが起こるのを防ぐことには力を注がなければならないが,同時にミスは起こるものだという想定も重要だろう。それがなかったために対応が遅れたというのが,この騒ぎの本質だと思う。

それにしても,朝日の社説にある「研究を優先して」というのは,あまりにも実態とかけ離れたことのように思う。大学の教育は,それぞれの分野の最先端であるべきだと思う。そのためには,われわれ自身が20年前に習ったことを,そのまま教えるわけにはいかない。常に,自分自身が研究の最先端に身を置いて,そこでの経験を伝えなくして,どうして大学教育といえるのかと思う。教育を優先して研究をあとまわしにするような大学教員は,存在価値がない。教育と研究は表裏一体だ。

実際のところは,しかし,設備を揃えたり旅費を調達するための書類を作成したり,大学改革をどう進めるかといったことについての会議や打ち合わせに費したりする時間が妙に多くて,教育も研究もあとまわしにせざるを得ないというのも,大学の現状である。競争倒れ,改革倒れにならなければいいが。(2001.6.17)


大野晋・上野健爾の『学力があぶない』(岩波新書)では,われわれが使っている「学力」という言葉が「学習してどこまで到達したかという,学んだ成果を示す」と,「学ぶ力という意味」の両方で用いられているとしている(78p)。そして,今問題になっている「学力低下」は,むしろ後者なのだと主張する。この点には,異論はない。常々多くの教育学者が指摘してきた通りである。そして,議論を呼んでいる新学習指導要領は,これを改善するために改訂されたのである。しかし,上野氏らの結論は逆だ。「事実を重んじて,論理をきちんとして,危機を乗り切っていける力をもった人を育てていくのが教育の目的」であり,「新しい学習指導要用はそういう観点からいったらまったく役にたたない」とする(225p)。

今日も,ニュース23で学力低下問題が取り上げられた。立花隆へのインタビューである。論旨は次のようだったろうか。「学習の理解率は,進級するに従ってしだいに下がる。それを解消するために,中学校までで教えてきた内容を高校2年までかかってじっくり教えるのが新指導要領である。そうすると,これまで高校でやってきた内容を残りの1年間でやらなければならないが,これは不可能である。これでは,日本の産業を支えてきた技術は維持できない。文部科学省は学力が落ちたという証拠はないと言うが,日本の子どもたちの実体的な学力は塾や親の金が支えているのであって,公教育は破綻している。さらに問題なのは,日本の子どもたちの意欲は,国際比較で下から2番目である。こういった状況ですべきことは,学習内容の削減によるゆとり教育ではなく,少人数学級の実現である。」

実に説得力がある。が,問題がある。少人数学級の提案はいいとして,(週5日制や社会の変化を前提として)カリキュラムや授業のあり方について何も提案していないことである。学力低下論者の多くが,これからの学校をどうするのかについて,具体的な提案をもちあわせていない。共通するのは,「事実を重んじて,論理をきちんとして,危機を乗り切っていける力」をつけるためには,まず基礎・基本となる事柄をしっかり身につけさせた上で総合的な学習に発展させるべきだというイメージのように思われる。

しかし,それはこれまで(学校であれ,塾であれ)やってきたことである。学習内容から意味を剥奪し,パターン化と反復練習によって解答できる力をつける。これで確かに,基礎・基本が身に付くように見える。しかし,それでは考える力はつかない。本当の基礎・基本は,要素的な事柄をこなす力ではなく,考える力なのである。このことは上野氏自身も指摘していることである(62p)。考える力を根本からつくるためには,考える場面を用意するしかないのは自明だろう。それが総合的な学習の時間にかけられている期待である。

今われわれは,総合的な学習の時間に行われるさまざまな活動が,本当に考える場面になるように,そしてそれが教科の学力や,国際問題・環境問題を考える学力につながっていくようにするために,いったいどうすればいいのかを論じなければならない。しかし,その前に,教師はそんな暇はないし資質もないのだから即刻中止せよというのが学力低下論者の主張である。では,いったいどんな代替プランを提示できるのか。互いのプランを比較して議論したいものだ。

蛇足ながら,上野氏は福井県で弦楽器を教えた故東海正之氏の教育法を絶賛しているが,それを全学校教育に広げて論じるのはあまりに無謀なように思われる。スキルの個人レッスンの話は,授業の話とはかなりちがう。東海氏の教育観はとても立派だが,ほとんどのレッスンはこのように行われている。一人一人の生徒に合わせた練習曲を書く教師も多い。自発的に音楽を弾くのを促すのもあたりまえだ。音楽とはそういうものなのだから。(2001.5.17)



大阪府枚方市にある長尾谷高等学校は通信制,単位制の高校である。通学する必要はなく,自主的に学習を進め,レポートの提出とスクーリングへの出席によって単位が認められ,74単位を修得すれば,高校の卒業単位が獲得できるシステムである。スクーリングは,本校と梅田,難波,京都,奈良の分室のどこでも受けられる。ここで,現在は約2,100名の生徒が学んでいるらしい。

この梅田分室で,「大学からまなぶ」という単位の授業をやってきた。平成14年度からはじまる「総合的な学習の時間」の先取り授業で,いくつかの大学の教員が,それぞれの専門分野の授業を2コマ程度ずつ提供するものである。今日のは,今年度の1回目だそうだ。1993年に2夜連続で放送された,NHKスペシャル「奥ヒマラヤ禁断の王国・ムスタン」を使って「メディアリテラシー」について考えるという内容で,テレビ番組における真実と演出の微妙なバランス,映像制作者と視聴者の関係,視聴者の多様性などについて話してきた。

授業の内容はともかく,単位制の高等学校に通う子どもたちはどんな様子だろうという興味はあった。受講生は10名だったので,ゼミのような感じで授業ができるかとも期待したが,やはり初対面で今日だけ,しかもこのような形式の授業ははじめてといった状況だったので,活発な意見交換は難しいように思われた。しかし,反面,こういった学習形態を希望するには,それなりに主張するものがある子どもたちだろうとも思ってもいた。実際の所はどうなんだろう。もう少し時間をとれれば,インタラクティブな授業になったかもしれないという感じが,少しだけした。

何についても自分なりの意見をもって,それを堂々と表明できるような学校というのが理想である。海外の学校や博物館などで授業に参加したときに感じるのがこの点である。つねに授業はインタラクションの中で進行する。教師もつねに質問を投げかける。質問・返答のサイクルがとても短いので,どんどん会話が進行していき,ストーリーが流れていく。日本では小学校でこそ,そういう光景は見られるが,中学校になるとぱったり消えてしまう。こういったコミュニケーションを成立しなくさせているのは,おそらく汎正解主義だろう。まちがったことを言うことについて恥ずかしいと思う。自信がないから質問に答えない。あてられて答えるときにも,友達の顔色をうかがいながらおそるおそる意見を言う。そういう“ためらい”こそ,むしろ恥ずかしいのに。

ところで,通信制高校に話をもどすと,こういう学習形態がこれからますます増えていくのだろう。学校というシステムがもっている問題が,いろいろな面で顕在化してきている。従来通りの指導や管理の感覚が通用しない子どもたちが増えているからだ。その背景には,社会全体の価値観の変容がある。これをみないで,子どもたちの性格や訓練に原因を帰属させる意見もあるが,おそらくミスリーディングだろう。価値観の異なる社会には,異なる制度が必要になる。通信制,それもインターネットを利用したe-learning,チャータースクールなどの実験が,これからますます重要になってくるだろう。(2001.5.16)



西欧に行くと,少し身体が触れただけで必ず一言交わされる。ドイツ語だと“Entschuldigung!(シュルディグンと聞こえる)”,英語だと“Excuse me!”である。“Pardon me”もよく聞く。身体が触れなくても,前を横切ったりするときに一声かける。

こういった挨拶が「言葉だったんだ」と認識したのは,列に並んでいた時に,そこを横切った家族が“Excuse us!”と言って通っていった時である。単なる符丁としてのexcuseではなかったのだ。学校で“Excuse me!”と覚えたばかりに,どんな時でもそればかり言ってきた。しかし考えてみれば,複数だとusになるわけだ。こんなことも文法が支配しているわけね,と変に納得したものだ。

言葉での挨拶に関して,生活科教室のNo.23に,西尾珪子さんが短文を寄せている。外国人の生徒から「日本人と友だちになりたくて日本語の挨拶言葉を覚えたのに,日本人は挨拶をしてくれません」と言われるそうだ。そういえば,職場では朝は「おはようございます」,帰りは「お疲れさまでした」といった挨拶が飛び交うが,日常的にはそれを“しぐさ”ですますように思う。

先の“Excuse me!”とは逆に,日本に帰ってくるとこれらの言葉が交わされることがあまりない。鞄が触れても,身体ごとぶつかっても,何も言わない場合がとても多い。自分自身も,飛行機を降りてしばらくは違和感があるものの,知らず知らずそれぞれの慣習に従うようになっていることに気付く。しかし,日本では挨拶をしないのではなく(そんな場合も結構あるけど),手を挙げたり頭を下げたりするしぐさをする場合が多いようにも思う。

ジェスチャーによるコミュニケーションに偏るのは日本の文化の特徴なのだろうか。それを,石黒マリーローズさんのように「尊重の芸術」「距離をおいた静かなコミュニケーション」ととらえてもらえればありがたい(『キリスト教文化の常識』,講談社新書)。しかし,グローバル化にともなって,行動様式のちがいが相互不理解となって軋轢をうむということも十分に考えられる。(2001.4.19)



先日の第8回総合的学習セミナーの中で集めた質問用紙の中に,「『ものづくり』の教育について,どう考えていますか」というのがあった。「ものづくり」を目指すことは,当然,子どもたちが進路を考える上での選択肢にあってしかるべきなのだが,実体とはかけ離れているといわざるを得ない。それは,進学に関する競争に破れた結果の選択であることが多いのが実情だ。

いうまでもないことだが,今,社会全体での「ものづくり」に対する価値のとらえなおしが必要だろう。ものづくり大学の構想にあったのも,ドイツのマイスター制度のような,職能に対するステータスを復権しようということだったようである(かすんでしまったけど…)。ドイツでは,実際に10歳の時に学業で行くのか,専門的職能を身に付けるのか,より早く社会に出て働くのかという選択をする。後者2つが,基幹学校や実科学校という種類の職業教育校に進むわけだが,その生徒たちと話をしても,実にあっけらかんとしていて,「勉強をそんなにしたくないのだから,どうしてギムナジウムに行く必要が在るのだ?」と逆に問い返されたりする。実際に,職能を身に付けてマイスターを取得することで,生産物の価格が保証され,生涯賃金もずっと多くなるのだから,それを目指すという目標が明確に設定できる。

日本に関しては,たとえ人間国宝を出すような伝統産業であっても,そういった保証はほとんど得られない。むしろ大学進学を目指す各校種の序列化の中で,そういう進路に関しては,全く目に見えない所に隠ぺいしてきてしまったのだ。しかし,よく考えてみれば,その歴史はそんなに長くはない。高々,30年ぐらいではないだろうか。この30年の間に,「もの」を作る営みが,われわれの目の前から消え,同時に進路選択から消えていったのだと思う。

さて,これからどの方向に進めばいいのだろうか。「ものづくり」の需要が全くなくなったわけではない。小物にしても家にしても,既製品の質の悪さに不満を持っている人たちは多い。21世紀が「心」「豊かさ」の時代なのだとすると,それを満たしてくれる「もの」についての関心は高まっていくだろう。そして,消費者教育にも期待がもてる。総合的な学習の時間でしばしば行われている,伝統工芸を体験する授業は,職人技を身に付けることが目的ではない。地域社会の成り立ちがわかり,職人が生きる世界を垣間見て,その厳しさやこだわりを知り,自分たちの日常を振り返ってもらいたいといったねらいがある。しかし同時に,手をかけて作られた「もの」の価値を感じ取り,その正当な対価を支払うのを厭わない,豊かな消費文化を形成することもそのねらいの一つである。 (2001.3.21)



17/18 日と,「総合的学習セミナー」を主催した。今回で8回目になる。初回は1998年の3月。ようやく「総合的な学習の時間」についての関心が向いてきた頃で,まだどのようなことをすればいいのか暗中模索の時期だった。そのころから思えば,この8回のセミナーを通して,現場の先生の意識も実践もずいぶん変わってきたと感じる。さらに,われわれの考え方も次第に変わってきている。そして,今回は最大の山場である「評価」の問題に,かなり踏み込めたように思う。

評価の問題がかくも重要なのは,「総合的学習」が教科の時間を削り,カリキュラムを規定するものが学習内容から学習体験や方法にシフトするという大きな犠牲(と見る人が多いので困るのだけど)を払ってまで行う「教育活動」だからである。「総合的学習」は単なる体験の時間でも,放任の時間でもあってはならない。学習の目的やねらいが明示され,それを達成させる手だてが意図され,その成果が評価されねばならない。

ポートフォリオ評価が注目を浴びている。いろいろな定義や方法が示されているが,簡単に言うと学習活動を記録し,それを自分でまとめてポートフォリオを作らせようということだ。しかし,これはそのままでは評価ではない。これをもって子どもの能力を測るような方法も習慣も,われわれは持ち合わせていないのである。プレゼンテーションを評価する観点も,そのレベルを判定する基準も,そのような評価に対する「了解」も,今のところない。子どもが作ったポートフォリオを見て,「ほら,すごいものを作るでしょう」と言ってみたところで,その主観が一般的なものとして通用する土壌はないのである。

「総合的学習」や「ゆとり教育」についてのバッシングがひどい。学力に関する問題は,大きく言って2つある。「論者によって学力の定義がが異なっていること」が一つである。算数の計算で,論理的な文章を書ける能力は測れない。人を説得する能力についても測れない。どちらを大事にするのが子どもたちのためなのだろうか。「総合的学習」が重視する学力は,むろん後者だ。もう一つは「学力低下の原因が,幼稚な推論だけで“ゆとり教育”だとされていること」である。よしんば学力低下が本当だとしても,それを生み出す原因には,解答方法のマニュアル化,ファミコンの普及,学習に対するインセンティブの低下,命題的知識と具体的事実の対応関係の欠如などいくらでも考えられる。

今,教育界に求められているのは,安易に「ゆとり教育バッシング」に追従するのではなく,問題状況に対する処方箋を多様に試みることと,その効果を明示することである。そしてさらに,簡単な筆記試験では測れない複雑な人間の能力をどのように測るのかを示し(もちろん,1つの尺度上に並べるような短絡的な評価方法はとるべきではない),それが社会に認められるように説明し続けることがとても大事だ。時間のかかる仕事である。 (2001.3.19)



野村万作・萬斎狂言会に行ってきた。富山の利賀村,滋賀の琵琶湖ホール,そして今日の金沢の文化ホールで3度目である。いずれも萬斎によるレクチャートークが楽しめた。軽妙な語り口で演目の解説をし,どこかの部分で出てくるフレーズを客席全員で唱じさせる。はじめは声がでなかった客席も,次第にのせられて腹から声を出すようになる。ちょっとしたことだけど,とてもうまいと思う。

考えさせられるのは,舞台に立つときに背筋をピンと伸ばして気持ちを入れ,座った状態で声を出すために,やや膝を開いて正座したときの両膝とおしりの3点に重心をのせて,腹から発声するという話。そして,背中を反響板にする。効果を得るためのイメージなのか,本当にそうなのかはわからないけれど,演じるために体を完全に道具化する技である。人前で楽器を弾いたり,講演をしたりするときの自分に通じるものがあるかもしれない。確かに日常とは異なる「演じ方」をしている。でもずっとレベルは低い。

ところで,レクチャートークによって,狂言のことがとても身近に感じられるようになったと,確かに思う。しかし,かつてはこれが教養だったのに,こうして手取り足取り教えてもらわないとそれがわからないのも情けないとも思う。国語の教材として狂言を習うことはあるし,その他の芸能についても代表的な作家や作品,演者について覚えることもある。しかし,そのおもしろさや文化的な価値のようなものが伝え切れているとはとても言えないだろう。作曲家の名前を知っていることと,その音楽を楽しむことは全く違う。楽しめないのに名前を知っている意味はなかろう。もっとも,そういったものを感じるためのきっかけになればいいということなのかも知れない。

文化を継承するということはどういうことなのだろうか。文化というのは覚えるものではなくて,母国語と同じように体にしみていくようなものなのだと思う。学校教育は,多様な文化を二次元的に切り取って子どもたちに見せるところまではやる。しかし,それに浸るような時間を保障することはない。そして今のところ,社会自体にも文化を楽しむ豊かさはない。子どもが社会と切り離されてもいる。文化を立体的に感じるためには,心に「ゆとり」,そして自分との関わりを広げてくれる体験が必要だと感じた公演だった。 (2001.3.13)



Eスクエアの13年度プロジェクトの募集をやっている。教育の情報化を促進するための研究開発に助成するものである。学校がインターネットを利用して共同研究や共同学習を行うのをサポートしたり,学校での学習につかわれるソフトウェアの開発を援助したりする。新しい情報技術を学校で活用する方策を探るようなプロジェクトでも良いようだ。しかし,次のような注書きがついている。

“注:プロジェクトは、学校教育に直接係わりのないもの、例えば学校運営のための業務アプリケーション開発などは対象外とします。”

例えば企業の営業部門でのコンピュータ利用を考えてみよう。営業部員たちはラップトップをアタッシュケースから取り出して,顧客にパワーポイントで売り上げ予想を示しながら,自社製品の導入を勧める。しかしその背景では,社員同士の連絡や,業務管理,人事などに関するイントラネットがフルに利用されている。どちらに対するコンピュータ整備も同様に重視される。企業においは,営業活動という最前線と,会社運営のための業務は表裏一体で,切り離せない物なのである。

しかるに,学校へのコンピュータ導入は,どういうわけか学習指導に関するものが優先される。本当に学校にコンピュータが根付くには,学習指導と学校運営の両方にバランスよく設備が導入され,どちらにおいても,利用者がその恩恵に浴することができる仕組みが必要不可欠である。教師自身が,コンピュータ導入によって無駄な業務から開放され,雑務にかける時間が短縮されることで,本来の仕事である学習指導に,より力を割けることになるはずだ。

学校には,教師も子どもも,そして保護者や地域の人々も関わっている。学校に出入りする業者も意外なくらい多い。すべての活動が,IT技術によって円滑に行えることを目指すのが,教育の情報化だと思う。(2001.3.6)


北陸三県教育工学研究協議会があった。例年になく70名ほどの参加があって,盛況だった。先生方の発表も充実したものが多く感心した。午後からは,参加者から出たキーワードをもとに,みんなで意見を出し合うラウンド・テーブルのようなセッションをもった。

そこで終始問題になったのは,「実体験」と「バーチャル・リアリティ」の問題である。一般に「情報」を理解しない向きは,「情報化」と「現実感喪失」や「仮想と現実の混同」を短絡的に結びつけようとする。一方,使えば使うほど「情報化」は「実体験」を促すのだと反対の主張をする人たちもいる。今日集まった人たちは,ほとんど後者だろう。テレビ会議などは最先端のIT技術に支えられているのに,そこで行われている交流学習は決して「仮想」ではない。確実に相手がいて,確かなコミュニケーションが行われるようになってきた。

「情報化」において看過してはならないのは,そこでコミュニケーションの様式が変化することだろう。思いついたら即座にメッセージを発し,都合のいいときにメッセージを返する。名前を隠し,時によってはキャラクタが代理でコミュニケーションをとる。プライベートでもありパブリックでもある。こういった様式の変化が,メッセージの中身にどのような影響を及ぼしているのだろうか。止めることのできないこの変化を,学校はどう組み入れていけばいいのだろうか。そうは思いたくないが,若い教師のセンスに期待しないとだめなような気もする。(2001.3.4)


現代教育新聞のサイトで,教師のジーンズ勤務について賛否のアンケートをやっている。2001年3月3日の集計は,賛成,反対,どちらでもないが,各24,23,17という状況である。  それぞれの立場で,それなりの価値判断の基準があって,相拮抗する結果になっているようである。「個性を表現する」ということをどう考えるか,「身だしなみ」「規律」といったことをどう考えるかといったところがちがっていると,結論が全く逆になるだろうと思われる。

しかし,考えてみれば,スーツ姿は足の先から頭のさきまでそろってなんぼなのではないかとも思う。そういう意味では,スーツにスニーカーといった教師によく見るファッションは,服装が乱れていると言えないか。ジャージの上にジャケットなどといった組合せすら見ることがある。スーツさえ着てればいいといいうものでもない。

そもそも学校にスーツというのは,最適な服装なのかというところから見直してもいい時期かも知れない。渉外の仕事がある管理職ならスーツも必要だろう。しかし,一般の教師にとっては,むしろ子どもの動きに合わせて機敏に反応できる服装が望ましいだろう。そういうこともあって,通勤にはスーツで,学校に来るとジャージに着替えてしまう教師も多い。では,このスーツは,誰のためのものか?「学校には仕事にきているのだ」というデモンストレーションのためのものだろうか?

子どもたちにとっても,服装や髪型は長く問題になってきた事柄だ。もともと色の薄い髪の子どもが,脱色したという嫌疑をかけられる話はけっこうあるようだ。ドイツの学校では,約20人のクラスに13もの人種が学び,英語の授業を自分たちの目や髪の色を使ってやっていた。もちろん服装は自由だ。「個性は服装だけで表現するものではない」 とする向きもあるが,最も表現しやすい手段を奪われて,個性を磨けと言われているのが 制服文化の子どもたちだし,教師たちのように思われる。(2001.3.3)

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