これまでのもの

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■■2006年1月4日■■2006年1月15日■■2006年2月5日■■2006年5月13日■■2006年7月17日■■
■■2006年7月29日■■2006年8月22日■■2006年9月25日■■
■■2006年9月25日■■

大阪には大きな病院はあちこちにあるから,医者不足とは無縁なのだろうと思っていたら,そんなことはないらしい。麻酔医や小児科,産婦人科などの専門医が少なくて,したがって今居る医者に負担がかかり,そうなると耐えられなくなって一人二人と辞めていって,さらに足りなくなるという循環がおこっているという。そこで専門医をセンター病院に集めて,とりあえずは近くの「かかりつけ医」に行ってから,手に負えない場合にセンターに行くという「かかりつけ医制度」が重要だという。

でも,医者には「かかりつけ」ない。常に同じ所が悪くなるわけではなくて,腰を痛めたり,風邪をひいたり,じんましんが出たりでそれぞれ行くところがちがうので,決まった医者にはまず行かない。近所の医者で「何でも診ます」って看板をあげている個人医院も見ないので,いつも最初に行く医者という関係は作りにくい。だいたい,医者に行くのが年に1〜2回で,それもなんとか時間を作ってやっといけるというような人間に「かかりつけ医制度」は大変つらい。

それにしても,日本中このような状態に至っているのに,厚生労働省曰く,人口あたりの医者の数は基準値を超えているんだそうだ。関西は,中でも結構恵まれているというから,もっと困っている地域はたくさんあるわけだ。特に産婦人科医については,最近報道がめだってきた。そして,やはり欧米先進国の平均に比べると,医者の数は少ないのだそうだ。さらに,医療費もあまり使わない国だという。それなのに…そして現実に医者が足りなくて困っている人がたくさんいるのに,その基準値に何の意味があるんだろう。

医療,教育,年金,失業保険,公害病などの補償,災害時の支援といったサービスこそが「豊かさ」なのではないかと思うけど,なかなかそういう満足は得られない(もっとも,医者にかかるのにとてつもない費用がかかる国に比べるとましかもしれないが)。大学の授業料も,国連の勧告にもかかわらず下がる気配もない(無償化条項を無視しているのは日本,ルワンダ,マダガスカルだけ)。

どこにも水を送れないダムや誰も渡らない歩道橋なんてなくていいから,必要なものが当たり前にあるという「豊かさ」のある国にならないだろうか。そうしたら教育基本法を変えなくてもいいんじゃないかと思う。


■■2006年8月22日■■

学習指導要領の改訂に向けての作業が,詰めに入ってきたようだ。とはいっても,一時報道されたように,年度内に公表されるようには思えない。まずは,政権交代があって,それから法律改正の話が先に動くと思われる。ところで,この改訂の目玉は3つある。小学校英語の導入と,国語・算数・理科の時間増,それに総合的な学習の時間の充実だ。

現行の授業時数を増やさないで国語・算数・理科の時間を増やすのはウルトラCだ。英語の導入がそれに加わると,まさに限られた時間の奪い合いということになる。現実的な路線としては,総合的な学習の時間減だろう。これがどこまで減るかが問題だ。年間35時間(週1時間)まで減ってしまうと,あまりやる意味がない。この時間を「しっかり」やれば,相当な学習成果(教科の学力も含めて)があることはわかっている。しかし,30時間ではしっかりやりようがない。これを何とか年間70時間は確保して欲しい。おそらく,そういう主張が繰り広げられていることと思う(そう信じたい)。そうなると,浮いてくるのは35時間。これをどうやりくりするかという話になる。まず,小学校英語は,おそらく3年生からの導入ということになるだろう。これを,まじめに週1回導入すると,もう余剰時間はない。ここから先だが,こんなことが考えられる。

プラン1:時間外のモジュールとして国語・算数・理科を実施する。今,多くの学校では朝読書を10分程度やっている。これは正規の授業時間外で行われている。これと同じように,例えば週5日を,国語2日,算数2日,理科1日,10分ずつ勉強する。国語は漢字や(ちらっと報道された)暗唱などにあてる。「気のおけない仲間」とか「役不足」などの絶滅が危惧されることばを使った短文づくりなどもいいだろう。算数は,計算練習(100マスもまあよかろう)。理科では,科学が面白くなるようなビデオクリップを見るなどはどうだろう。

プラン2:総合的な学習の「充実」の意味は,つけたい力の明確化とその教科との関連付けである。これを進めていくと,総合的な学習の時間における活動は総合として位置づけて,そこで学ぶべき事柄を教科としてとらえるということになる。つまりは,活動に教科学習の味付けをするということだ。例えば,商店街の紹介サイトを作るときに,その表現を国語として吟味し,誤字・脱字も厳しくチェックする。新しい漢字や表現も積極的に使わせる。そして,その時間を「総合的な学習の時間」と「教科」にあてた時間としてダブルカウントする。

プラン3:もう少しラディカルに考えよう。総合的な学習の時間は70時間取るけれども,3年〜6年のすべてでやらないというのはどうだろう。総合は例えば,4年・5年でしっかりやる。そのかわり,3年・6年では,国語・算数・理科の時間を70時間分しっかりとる。2年間の総合なら,同じテーマが繰り返すということもない。6年生の卒業研究に時間を当てたければ,6年生は,総合30時間,国・算・理30時間というのでもいいかもしれない。

実は,英語の学習も,時々まとめてやるよりは,毎日少しずつやる方が効果があがると言われている。そうすると,英語もモジュールとして導入する方がいいのかも知れない。こちらをプラン1に組み入れて,毎日10分の英語活動にしてしまうと,逆に各学年,年間35時間を国・算・理にあてられる。それでもいいかもしれない。

さて,実際にはどのような組み合わせになるのだろうか。あるいは全く異なる月面宙返りが披露されるのだろうか。いずれにしろ,総合的な学習の本来の意味,ゆとり学習の本当のねらいである「“自分で”考える」時間を削って学力低下に至る基礎学力重視だけは止めて欲しい。


■■2006年7月29日■■

教員は忙しい。先生は授業をしているだけだと思っている人はさすがにいないだろうが,実際の生活をイメージできる一般の人はそれほどいないだろう。しかし,少し考えてみれば,1日6時間の授業をするということがどれだけ大変かは,すぐわかる。1日に6つの会議でプレゼンテーションをする,しかもそれが週に5日続くという状況を考えれば,その一部が例え再放送であったとしても,準備にどれだけ時間を割かなければならないかは想像に難くない。しかも,それだけではない。学校にはさまざまなクレームが来る。子どもがいじめられているらしいなどの相談は全うなものだが,子どもが蚊に刺されただけで責任を追及する親までいる始末だ。それに加えて,校区のイベントへの参加依頼や,選挙の手伝いまである。もちろん,学校内外での教育に関わる研修会への参加や,同じ学年や教科の先生同士の教材研究の時間も確保しなければならない。これをこなすのは大変だ。

昨日のゼミで,現職の院生が,推奨されている方法で子どもの評価を行ったら,いかに大変なことになるかという話をしていた。評価(評定)においては,子どもの出席点,日常の課題に対する点数,中間や期末における考査の点数のバランスを考える。問題は,日常の課題の点数化で,提出された課題(作品)を査定するぐらいならできるが,課題達成までのプロセスにおいて,どれくらい真剣に取り組んでいるか,どのように思考を展開しているかなどを観察して評価するといっても,1人1分ぐらいしかみることはできないし,同じ時間に全員をみることもできない中で,どうやってやるのか…というわけだ。観点別にそれぞれを点数化して,エクセルで計算する手順はわかるが,その通りやると,従来の数倍は時間をとるということも,実際に示してくれた。それはそうだろう。

ここでこの問題をどうとらえるか,分かれる。非現実的な評価を止めるか,それともそれができるような体制をつくるか。絶対的な基準をもって,しかも個人内の成長をみるような評価には手間がかかる。しかし,それをやることが最近は求められる。実際にやると,ただでさえ忙しい教員の仕事がもっと忙しくなる。教師の責務は,単に教えたり評価したりすることだけではなくて,実は一番大事な「教養を磨く」ということにあると思うのだが,そのための時間が全くとれなくなる。そうなると,教師の人間的魅力もモラルも堕ちていく。長い目で見ると,とてつもない損失だ。損失を防ぎ,かつ子どもの成長にとって極めて重要な評価をていねいにすることを実現する方法は,一つしかない。教育にもっと人的リソースをかけることだ。しかし,そこには教育に対する社会の見方が絡んでいる。幸せ度90位の日本に,100年の計を教育の視点からみることを期待するのは無理なのだろうか。

同じことが,教育メディアについても言える。最近,上昇傾向にあると言われている景気動向の中で,じつは教育産業が大変なことになっているように思える。自分自身が関わる教育支援のプロジェクトや研究会には,いくつもの企業か支援をしてもらっていた。それが今年,総額で少なくとも260万円削られた。これを自分で埋めるのは不可能だ。そうなると,実際にはまわらなくなるプロジェクトや,閉めなければならない研究会が出てくることが予想される。教育現場に対する支援も,随分手薄くなってきた。実際に初等中等教育に関する部門を閉じることを検討している企業もあるようだし,そうなってくると,次の段階が気になる。一度止めてしまった研究会や開発は,もう一度立ち上げるために,ものすごく時間と労力を必要とする。そこの集まる人を一から育てなければならなくなるからだ。こういったことが起こらないように,幅広く日本の教育に肥やしを与えて育てていく社会的コンセンサスが欲しい。


■■2006年1月4日■■

理解力とは何だろうか。辞書によれば,「物事のすじみちをさとること」「人の気持ちや立場がよくわかること」などとある。教育の分野では,ベンジャミン・ブルームが教育目標の分類体系をつくる中で,知識→理解→応用→分析→総合→評価の6つのレベルを想定した(認知的領域)。年号やものの名前などは,知識にあたる。理解はその次だ。歴史的事件がどういう関係の中で起こったのか,公式はどういう要素を組み合わせてできているのかという「すじみち」を知ることがそれにあたる。

知識や理解は,教育目標全体からみれば,次元が低い。ただし,次元は低いが根源的であって,それ抜きには次の段階に進めない。しかし,そこでとまってしまったら,次元の低いことだけしか学ばない。これを,学年段階で考えてしまうと,大変だ。基礎・基本の重視は,評価までつなげる教育実践の入り口としてとらえらるべきで,それを確実に評価に高める指導と機会が与えられなければならない。そしてそれは,学習内容のまとまりごとに考えるべきだ。どの時期にも,基礎から高い次元への流れが用意されなければ,思考が育たない。これは自明だろう。避けなければ成らないのは,思考のマニュアル化である。それは,思考の機会を奪う。マニュアルを自分で考え出すことが,応用,分析,総合,評価の活動にあたる。それを与えてしまっては,長い目で見たときに非効率的な学習となる。とかく評判の悪い学校教育には,それを実践する使命がある。でも,実際には,理解までの教育に甘んじていないか。あるいは,率先してそれをやっていないか。

他国の人の気持ちや立場がよくわからない,という人がいる。ウソだろう。なぜ自分の行動に対して,他国が過激に反応するのか,わかりすぎるほどわかっているはずだ。それを,「理解できない」の一言で片付ける裏は何だろうか。交渉の扉を閉じたことはないという言葉の意味は何だろうか。日本の国内に(もちろん為政者の中にも)多様な思想があることを前提に,柔軟な交渉をする姿勢を見せなさいということか。しかし,それはできない相談だろうし,できない事情は日本がこしらえたのである。日本の側としては,まさにそのことについての「理解」を他国に示す必要があるのではないかと思う。その先にしか,一つ一つの問題についての応用・分析・総合的な解決がないのではないだろうか。

教育にしても政治にしても,高次な思考や判断は,マニュアルで解ける多肢選択問題ではない。ましてや1か0の二値問題ではありえない。メディアに煽動されがちな多肢選択行動から抜け出て,複雑な思考を目指す教育であり,政治であって欲しいと思う。


■■2006年1月15日■■

JALの機内誌,SKYWARDに養老孟司がこんなことを書いていた。「3歳ぐらいの子供100人以上の生活時間と識字率の関係を調べたら,外遊びの時間が長い子供ほど文字を知っているという結果が出た。意外なようだが,脳の成長のしくみを考えれば,これはあたりまえ。体を動かすことが脳を育てるからである。…中略…一見,無意味なような遊びのなかからいろいろなことに出合って,自分なりのルールをつくっていくことは,生き物としての人間には大事。特殊な才能を育てるのは,その先でいいと僕は思う。」

これを,ピアジェの言葉で言えば,「同化(assimilation)」と「調節(accommodation)」という。人間には,物事を把握したり考えたりする頭の中の枠組み(schema)があって,既存のシェマを新しい外界の物事に当てはめ,それをシェマの中に取り込むことが同化である。ところが,対象が既存のシェマではとらえきれない場合,同化の時期を遅らせたりシェマを組み替えたりするような作用がおこる。これを繰り返して,発達していくのである。

1997年に首相に当選し,「教育,教育,そして教育」と優先課題をかかげたトニー・ブレアは,2004年に3歳児の就学前教育無償化にこぎ着けた。日本でも,幼稚園の義務化なんて話が出てきているが,だいぶ遅れをとっている。ただ,早期教育の重視政策がイギリスで打ち出されたときに,スウェーデンなど北欧を取材したレポートには,そのような早期教育を疑問視する声があった。早期教育は,かえって発達に害を及ぼすと信じられているのである。

ピアジェは,発達に段階があることも明らかにしている。就学前から就学直後にあたる時期は「前操作段階」という。この時期は,すでに言語やイメージの能力をある程度つくりあげているのだが,例えば数の保存が理解できなかったりする。その次の段階が「具体的操作期」で,ほぼ小学校の期間である。具体的な事柄や実際的な課題について,論理的な思考ができるようになる。質量や数の保存も理解できる。しかし,抽象的な思考はまだできないとされている。もちろん個人差があるし,課題によって時期が違うという批判もある。今日では,ピアジェの理論を覆すデータも報告されているが,それでもやはり発達にはそれに適した時期がある。それを待たずにやみくもに早期教育に走るのは,北欧の人々が信じるように,かえって将来をつぶすことになると思う。


■■2006年2月5日■■

ラジオで,森林業の業種説明会の様子をレポートしていた(森林の仕事ガイダンス・共同説明会)。森林整備に関わるさまざまな仕事の説明会だそうだ。大阪会場を皮切りに,福岡,仙台,名古屋〜と各地で開催される。見たわけではないが,結構盛況だそうだ。森林は,そのものが自然環境のシンボルであるだけでなく,二酸化炭素の削減や保水,農業に影響のある水質,そして漁業にまで影響をあたえる根本である。それだけにこの仕事は重要だ。…と共感しながらレポートを聞いていたら,最後に説明会への参加を募っていた。曰く,「年齢・性別ふといです」。一瞬,「誰がやねん」と無意識で突っ込みつつ,意味がわからなくなった。

メディアに露出する人の,こういうミスが実に目立つ。そして,それが広がっていく。そして言葉も変わっていく。メディアは突出したものをデフォルメして伝え,それが現実を構成する。近藤光史のラジオでパートナーが新人に変わったときに,言葉の話になった。「〜行けんくなった」などの言葉について,新人ははっきりと「言葉は生き物だから積極的に使って良い」と主張する。近藤光史は,「言葉が生き物であることは認める。しかし,放送にたずさわる者は,言葉が変わるのを見ながら,全ての人の言葉が変わったときに,最後に変われば良い」と言っていた。そのとおり。

それはそうと,言葉の変化で気になるのは,微妙な表現が抜けていっているのではないかと思うことである。おいしいのもこまったのも「やばい」では,本当の気持ちがくみ取れない。どんな気持ちを持ったのかをはっきりしたくないし,明確に意識したくもないという心がこういう表現を生むのだろうか。

日本では,雪を表現する言葉がたくさんある。大雪,小雪,淡雪,綿雪,ぼたん雪,粉雪,つぶ雪,ざらめ雪,かた雪,みず雪,細雪,根雪,どか雪,しまり雪…。それは,所によって,時期によって,日によってさまざまな雪に出合うからだ。アフリカの部族語では,黒を表す単語が細分化されている。もちろん部族間の肌の色の違いを良い分けるためだ。事柄を細かく観察して,それを概念化し,生活に活かすことの積み重ねが文化であり,それを継承することによって文化が維持される。さまざまな雪を体験することで,言葉の意味が自然に理解される。金沢に住んでわかったことの一つだ。言葉の読みを機械的におぼえるよりも,その方がよほど良い。


■■2006年5月13日■■

久保田賢一先生の『ライフワークとしての国際ボランティア』という本を読んだ。半年ほど寝かせてあった本だ。なぜ,ぼくがこの人を「つきあえばつきあうほど奥深い人だ」と思わざるを得ないのかを,わかり直せたように思う。

ぼく自身も20代の最後でケニアに2ヶ月,教材作成専門家として働いた。当時JICAの人口抑制計画の教育プログラムがケニアで走っていた。ケニアの識字率はそう高くない。したがって,文字を使った啓蒙には効果に限りがある。映像や図絵,あるいは歌やダンスなどのさまざまなメディアを用いた教育が必要になる。仕事は,JICAの援助で作られたナイロビスタジオを基点に,山間部のメルーやカカメガなどの地方の村での取材と番組制作に同行するものだった。といっても,久保田先生の本にあるように,具体的にどのような仕事をすべきかという明示的なオブリゲーションはなく,そのような活動の中で自分で考えるしかなかった。日本では1日に7つの仕事,ケニアでは7日に1つの仕事…というような時間の流れの中で,限られた2ヶ月で何をすべきか,随分悩んだものだ。

ナイロビのスタジオでは,コンピュータを活用したプリント教材の作成セミナーを行ったりした。ぼくにはこの国の教育にかかわる何の権限もないのに,検定テストをやって合格証を発行したりもした。これによってサラリーが変わるということだった。今度こういった番組を作るときのために,どのような意図で撮影をし,編集したのかをインタビューしたりもした。ぼく自身の勉強にはなったが,それを一般化したものがその後使われたわけはない。

このとき一緒にまわったクルーが翌年,沖縄センターに研修に来た。向こうでも彼らと話し,その際にも思ったことで,しかも帰国後報告書に書いたのは,テレビクルーの研修に,わざわざ日本に来させることはないということだ。アメリカやイギリスのテレビ局への奨学金を援助すれば,ずっと彼らのためになる。でも,それだと日本とケニアの継続的な(公的なものも私的なものも含めて)国際交流,国際援助のためにはならないのかとも,今となっては思う。

ぼくにとってのこの2ヶ月は,とても大きかった。研究者として全く駆け出してもいなかった時に,先行きの不安さ故に手を挙げて行ってみたケニアで,大きく人生観が変わった。自分自身の教育観を信じようと。どのような研究者として生きていくかに,腹を据えたという感じだろうか。アフリカの大地から,そこで農作業をする人たち,何もしないで座っている人たちから,学んだことだ。具体的な目標をもって海外に渡る場合が普通なのだろうけど,異なる文化に触れることで学ぶことは人それぞれにある。そういう意味では,沖縄にやってきた彼らも,得るものがあったのかなと。


■■2006年7月17日■■

ICT(Information & Communication Technology)の教育場面における効果について,問われるようになってきた。すべての学級でICTを自在に使えるようにするには,相応のコストがかかるからだ。イギリスではICTを積極的に活用している学校は,学業成績(GCSE)が高いという調査結果が報告されたり,日本の教師の多くが,IT活用と学力向上には関連があると感じているというアンケート結果が報告されたりしている。教室のデジタル環境が一定水準で整備されるはずだった2005年度がすぎても,実際の整備状況はお粗末な限りである現状を見れば,「ICTは学力向上に寄与する」というロジックを背景に,財政サイドにコスト負担を要求する教育行政の立場はわかる。

多くの学会では,プロジェクタとスクリーンを使ってプレゼンテーションをする光景が,当たり前になった。テレビの番組でも,この形式を用いて進行する低コストな長時間番組が人気だ。一方で,アナウンサーの講演会に行ってみると,まったくプレゼンテーションのない状況でたっぷり90分間,聴衆を惹きつけて,最後には感動せざるを得なくなるような話術を見せられる。なぜ,僕たちはデジタル・プレゼンテーションに頼らざるを得ないのだろうか。話すのがそううまくないということがきっとある。何もプレゼンテーションの道具がないときの学会発表は,緊張したものだ。スクリーンは,話し手に対して,どんな順序で何を話せばいいのか教えてくれる。同時に,聴衆の目を話者からそらして,対面による緊張感を軽減してくれる。

一方で,実験装置の図や実験結果のグラフなど,視覚的な情報を伝える必要があるからでもある。かつては図や写真を印刷して手渡したりしていたが,今ではその手間をかけずに見せることができる。文字のプレゼンテーションの場合でも,見せるものと話す内容を敢えてずらせて,違和感を演出することもある。そうなると,これは新しい話術の一種だろうか。実際に,伝えたいことをうまく伝えられたという実感も大事だ(あまりないけど…)。ICTを用いることで教えるべき内容をうまく組み立てることができて,円滑に展開できるという感覚を持てれば,学力向上などの効果と関係なく,利用されるだろう。

上手に黒板を使って学級での話し合いを組み立て,学習事項を整理しながら提示している技術を板書技術という。優れた教師のもつ資質の一つがこれだ。授業が終わったときに,予定していた(ような)形に,概念が見取り図となって表されている。どうしてこんなことができるのか…といえば,黒板に書いたものは残るからだ。ところがICTで見たものの多くは残らない。特に,映像は。文字や図として黒板に残されたものはノートに写せる。目の前を過ぎ去っている映像は,ノートにも残せない。それでもなお,ICTに頼って映像情報は見せる価値があるのだろうか。あるとしたらそれは何で,どうやって測ることができるのだろうか。そして,その価値を組み込んだ授業の技術はどのようなものなのだろうか。ICTの効果というとき,本当はそこまで含めて考える必要がある。教室の中で使われるメディアである以上,黒板や掲示物,教師のふるまいなどとの総和として,教育効果は顕れる。


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