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■■2004年1月1日■■2004年3月6日■■2004年3月16日■■2004年3月17日■■2004年5月15日■■
■■2004年10月30日■■2004年12月9日■■
■■2005年1月20日■■

■■2004年12月9日■■

2003年に実施されたPISA(国際学生評価プログラム)の結果が報道され始めた。PISAとは,国語リテラシー,数学リテラシー,科学リテラシー,それに問題解決能力について,3年ごとに実施される国際調査である。問題解決は,「国語,数学,科学の単独の領域では簡単には解決策が見いだせないような実際の学際的な状況の中で,認知的能力を活用する力」のことである。国際教育到達度評価学会は,文化の影響を受けにくい数学,理科の到達度を比較しているが,PISAはより広い領域の高度な能力を比較する試みである。

さて,日本の子どもたちは数学,理科の成績はよくても,より思考力を必要とする問題では芳しくないだろうという予測をしていたのだが,結果から見ればかなり優秀だ。問題解決能力に関する成績は,平均点では4位であるが,分布を見ればむしろ平均1位の韓国,2位の香港,3位のフィンランドよりも高得点をマークしている。もっとも低得点の方にも分布は伸びているが。おもしろいのは,数学得点の割には問題解決ができることである。さらに問題になりそうなのは,教科リテラシーの順位が,成績上位グループの中で落ちていることである。とくに国語リテラシーについては危機感がつのる。これは将来的に,問題解決能力も,他の教科リテラシーも押し下げる可能性があるからだ。

それはともかく,これでジャーナリズムが学力低下の大合唱をはじめて,ゆとり教育へのバッシングがますます強くなるのはまちがいなかろう。すでに専門家と称する方が「悲惨な結果」などと評している。そして,軌を一にして文部科学省大臣が競争の重要性を言い始めた。しかし,少し冷静に考える必要があるのではないか。学力が低下したから知識やスキルを競争させて鍛えればいいという発想は,あまりに短絡的で貧困だ。この社会情勢のなかでそれは本当に現実的か,機能するのか。

この現象の原因は複雑だ。子どもを取り巻くさまざまなメディア環境の変化(テレビゲームなどの浸透),社会における価値観の変容(ちょっとしたことで裕福に見える暮らしがてにはいることによる学問や人格形成への意思の希薄化),教育産業による知識のマニュアル化など,いくらでも想定できる。子どもが勉強しなくなったこと,考えなくなったことの背景について考え及ばない論議に耳を貸してはいけない。学校での子どもの暮らしや学習内容だけを昔にもどすようなやり方では,まちがいなくこの問題は解決できないだろう。

そして,くだんのゆとり教育は,土曜日の休校以外,現実にはまだはじまっていないと言ってもよい。生活科はたしかにその一環であり,学級裁量の時間もそうだったが,その完成に至る総合的な学習をどのくらい「ゆとり“教育”」として実施できているか。教科学習の時間に振り替え,本来の趣旨であるじっくり考えさせる時間の確保,問題解決能力の育成にどれくらいの時間を割いているか。やってもいないうちから,疑問が呈され事実上つぶされた観がある。したがって,教科リテラシー順位の低下はゆとり教育の結果なのではなく,ゆとり教育をやらなかった結果なのだとすら思えるのである。

社会とつながった問題についての問題解決学習は,どこの国でも取り入れざるをえない学習内容だ。基礎的な学力はそれだけ鍛えれば身に付くというようなものではなく,主体的に利用されることで定着し,発展する。そのような場面を,どうやって系統的に作りだしていくのかを,真剣に考える必要があるだろう。本当の意味での「ゆとり教育」を充実させて,系統的に進めていくことが近道に思えるのだが。


■■2004年10月30日■■

評価について考える機会がますます増えている。各学校にも,全ての教科で単元の観点別達成度を示す評価基準を作成するようにプレッシャーがかかっている。判定基準を明示する方法(ルーブリク)が示され,全員を最低到達基準に引き上げるための指導方法を具体的に明記するような要請も出されている。ルーブリクについては関心もあって,調べてもいたが,正直こんなに早く伝播するとは思っていなかった。ただ,これは相当注意して使わないと,まずいと思う。ただ形式だけを取り入れて,よく評価語(基準を示すことば)を吟味しないまま表を埋めるようなやり方をしていては,ルーブリクを使う意味がない上に,作成のために使う時間までムダになってしまう。

ルーブリクは,主観的な評価基準を顕在化させることに意義がある。自分は,どのような質的な基準で評価をしているのかを意識することが第一歩である。そもそも評価の基準が量的なものでしかないのであれば,わざわざルーブリクにするまでもなく,そのままその数値を使えばいい。ここに表現されるのは,量で表現できないものであり,学習者が示す様子や状態である。観察しやすいものもあれば,しにくいものもあろう。行動の場合もあれば,行動の結果書き記したものや描いたものの場合もあろう。いずれにしろ,それが質的にどのような価値を持っているかが表現されなければ意味がない。

ところが,価値というのは評価者によって一様ではないし,同じ評価者の中でも結構ぶれがちだ。前者に関しては,妥当な価値基準をいくつか用意することになる。ルーブリクの評価項目のことだ。同じパフォーマンスをみても,人によって評価する視点がちがっている。スポーツの採点競技でも,いくつもの採点項目が明示されていが,それはその競技の完成度を表現するのに必要十分な項目なのだろう。そして,評価のぶれを最小限にとどめるために,どのような状態だったらどう評価するかが言葉で示される。この言葉をさがすのが大変だ。人の行動をほめる形容詞や形容動詞を総動員しても言い表せないと思うことがよくある。

こうしてみると,使えるルーブリクをつくるためには,さまざまな価値基準をみんなで出し合ってその妥当性を吟味したり,評価基準を記述してみて了解できるかどうか検討する十分な時間が必要だろう。それを,全教科,全単元…本当は必要となる学習活動全てについてやらなければならないはずだ。少なくとも,記述の仕方になれるまでは,一部でもいいからその手続きを惜しむべきではないだろう。そして,実際に吟味する機会をもったときに驚くのは,それを考えることが授業の中での子どもへのはたらきかけを考え直すことにダイレクトにつながっている実感をもつことである。


■■2004年5月15日■■

それにしても,先週末は不愉快だった。菅直人氏の年金未納問題に関する報道である。菅氏の未納がどのような経緯で起こったかは別にして,立て続けに出演した全てのテレビ番組において,司会者やキャスター,政治評論家の詰問の焦点は,「辞任すると言いなさい」ということであった。しかし,それを問うている人は,本当にそこで辞任するという現地をとることができると思っていたのだろうか。どう考えても,そんなことをたかだか限定された番組の中で言うわけがない。

それより何より,常に提示された構図は,年金未納がどのように起こったのかを説明しようとする菅氏の意図と,それをさえぎって辞任についてどう考えるのかに話をもっていこうとする意図とのせめぎ合いであった。どうして,菅氏の言うことをじっと待ってはいられないのか。少なくとも,番組構成上,その説明にどれくらいかかるのかを聞いた上で,その真偽をただしたり,辞任についての考えを聞き出すような時間を設定すべきだったのではないか。一視聴者としては,辞任するかどうかより,菅氏がこの問題をどう考えてどういう方向に持っていこうとしているのかを聞き,自分自身で考えたかった。そして,それをさえぎる司会者たちには反感すら覚えたのである。菅氏も笑顔を捨てて,激しく主張してもよかったのにと思ったりもする。でも,そうするとさらに“言い訳”っぽく見えたかもしれないが。

ところでメディアの怖さを感じたのは次のことだ。ある番組で,福田氏の辞任について「辞めた方が良かった」か「辞めなくて良かったか」,菅氏について「辞任すべき」か「辞任しない方が良い」かをアンケートした結果が報道されていた。そのパネルを見せて,菅氏に「辞任しろ」と迫る場面だったのだが,よく考えてみると,辞任についてどう考えるかはそれまでのメディアによる報道,しかも菅氏の口を封じた報道によって大きく左右されているのではないか。メディアがアンケート結果という現実を構成し,その結果を世論として再登場させるメディアの螺旋構造が明らかだった。これは,“疑惑の総合商社”の時もそうだった。

そして,菅氏は辞任に至る。各紙やテレビは「辞任」と報道したが,これは本当に辞任か?メディアがこぞって辞めさせたのではないだろうか。まあ,辞任というのは,たぶんに「辞任させられる」ということがあるのだけれど。ここでもまた,メディアが現実を構成してしまったのである。ところで,自分のことを棚に上げて自民党や芸能人を批判した菅氏の辞任を要求した人たちの年金未納問題が明らかになってしまった。片方で,菅氏の年金未納問題は,やはり武蔵野社会保険事務所のミスだったらしく,国民年金脱退手続きを取り消すことになった。誰がどうやって責任を取るのだろうか。一番割を食ったのは,菅氏であり,民社党であり,二大政党制に多少なりとも期待する国民なのだ。


■■2004年3月17日■■

Sunburstというギター曲がある。Andrew Yorkという人の作曲で,村治佳織がこれを弾くCMが流れているので耳にした人も多いだろう。この曲,木村大の演奏でも聴いてみた。村治佳織の演奏とはあまりにちがっている。木村大のは火花のような日差しに思えるし,村治佳織のは春の日差し。こんなにちがっているなら,本物はどんなんだろうと思って,Yorkのものも聞いてみた。これがまた全く違っていて,確かに雲間から突然降り注ぐ煌めきを伴った陽光の感じがする。強すぎもせず柔らかすぎることもない。でも,どれもが立派な芸術だ。このあたりが,音楽の醍醐味なのだ。

話はちがうが,少し前にロボットが「運命」を指揮するイベントがあった。最初の「ダダダダーン」は揃って入っていたし,その後も大きな崩壊はなかったようだけど,さすがに最後のコードはそろわなかった。まあ,当たり前だろうと思う。

そもそも,指揮をするってことは,単に指揮棒をうまく動かせばいいということではない。中学校の教科書に,指揮棒の奇蹟を描いてあったのを思い出すが,実はあれは無意味だ。重要なのは打点の前後における加速度なのだそうだけど(斉藤秀夫の『指揮法教程』による),そんなことはかけらも書いていなかった。ロボットの指揮棒はなめらかに動いていただけで,加速度は感じなかった。それに,もっと重要なのは実は棒ではなくて呼吸なのだ。アウフタクトで,音の勢いや表情を呼吸によって示すことが指揮者にとって一番大切な仕事である。演奏者は,その息を感じ,一緒に息を吸ってそれを音にする。息をしないロボットにはそれができない。

さらに,演奏者とつくりあげる曲の解釈もない。曲の解釈は,指揮者がしていると思っている人も多いだろうが,きわめてインタラクティブなものである。オーケストラの全員が指揮者と一体になったら,とてつもなくすごい音が鳴る。曲の解釈はその上にある。全員がそっぽを向いたら,実につまらない音になる。ここには解釈そのものがないのかもしれない。ロボットが,演奏時の状況に合わせていろいろな解釈を作り出せるほど進化したら,芸術と呼んでもいいかもしれないが,無理だろうな。

科学者の挑戦には価値があるが,意味のない挑戦はどうかと思ったできごとだった。


■■2004年3月16日■■

大学教員の任期制がここまできたか…という印象だ。長野大学では,すべての教員が5年任期で評価されるようになる。すでにいくつかの大学で任期制は導入されているが,たいがいは新任教員で,しかも助手や講師に限定されていた。全教員を対象にするというのは思い切った試みだ。例えば,定年間近な教授が更新できなかったらどうなるのだろう。おそらく再就職は不可能だ。評議員や学部長が更新できなかったらどうなるのだろう。大学の運営が混乱する。

業績を何で測るかというのが,実は問題だ。大学に求められているものは,今では主に3つある。研究,教育,社会貢献である。一方,大学にはどんな輩がいるのかというと,実は研究者,教育者,ボランティア,政治家,その他である。もちろん,一人の教員が複数の顔をもつ。最近では大学そのものを研究大学と教育大学に峻別する動きも見られたりして,研究だけでなく教育についても多少の功績が認められるようになりつつあるとは思うが,まだ社会貢献が業績として認められるようにはなっていない。興味が全くないのだが,政治も重要だ。競争の時代に入っている今日,針路を決めるのは政治でしかない。研究も教育も社会貢献も政治もできるようなスーパーマンはいない。

業績審査をどのように行うのだろう。基準を決めてあってそれで審査するというようなわけにはなかなかいかない。研究に限っても,領域によって研究論文が出せる頻度が全く異なっている。常にグループで研究をする領域もあれば,個人で思索を積み重ねなければ書けない領域もある。それぞれの領域ごとに基準を設けるのだろうか。学術論文,一般的な記事,翻訳,学会発表,学会での役割(これも業績?)などを細かく点数化すれば領域を超えた標準化も可能かもしれない。が,それらを合計してしまうとまずいように思う。それぞれの研究業績には質の違いがあるのだ。

こういったややこしい問題をはらむ任期制だが,実はあってしかるべきだと思う。そんないろいろ考えられる問題よりも,大学そのものの価値を高めることを最優先したということなのだ。大学が行くに値する場所であり続けるためには,このような劇薬も必要かもしれない。もちろん,向上心を取り戻す教員が出てくることが最も望ましい。自分自身がそうでありたいとも思う。


■■2004年3月6日■■

鳥インフルエンザで大量の鶏が処分されている。病気が広がらないようにするためにはそれもいたしかたないのだろうが,複雑な感情を持つ。今日は,処分された鶏を埋めるための巨大な溝が放映されていたが,その光景を想像するといろいろ連想が広がってしまう。第二次大戦のときのことなどに…。

ところで,鶏だと感染の疑いのある個体は処分すればいいのだが,これが人間だったら…と考える人も結構多いのではないだろうか。人間だったら感染の疑いがあっても処分することはできないので,隔離するにとどめるのだ。昨年のSARSの時に,香港のビルを丸ごと封鎖したのは記憶に新しい。ではなぜ,鳥や動物や魚なら全数処分ということになるのだろうか。命の教育は,そんな情景の中でどのように行えるのだろうか。

こういったことを考えているときに,カラスからインフルエンザ・ウィルスが発見された。こうなるともう,一部の地域の鶏だけを処分することで問題は収まらないだろう。この際,日本中の鶏をすべて処分するか。そして,鴨やうずらも殺してしまうか。家庭で飼われている小鳥も処分するように通達でも出すか。

本当にすべきことは,処分することではないんじゃなかろうか。幸い,よく加熱して食べれば人への感染はないとされている。そのような調理法で商品化できるものはするとして,一方でウィルスに耐えられる個体を見つけて未来に活かすことなのではないかと考えるのは,素人考えだろうか。


■■2004年1月1日■■

2004年が開けた。今年もさまざまな主張に,学校は翻弄されることだろう。微視的なものもあれば,偏ったものもあるにちがいない。為政者は,是非本質を見た対応や政策を打ち出してほしい。個人的に気になっているのは,NHKの「日本語で遊ぼう」が人気を呼んでいることだ。番組の構成や登場人物を見るとなるほどと思う。

ここで持つ疑問はこうだ。例えば「寿下無〜」を小さい頃から暗唱することが,どのようなパースペクティブの下で推奨されているのだろうか。芭蕉の俳句などをイメージ化して繰り返し与えることの背景は何だろうか。これらの疑問に対する答えはもちろん,日本語の響きや型を早いうちから体にしみこませておきたいという“教育的なねらい”である。

しかし,本来ならば「寿下無〜」は落語「寿下無」全体の流れの中で,この長い名前が持つ意味を感じ取ってもらわなければ意味がないし,俳句は敢えて具体的なイメージを与えないことが無限のイメージを創造することにつながるのではないかという“理想主義的”反論が成立するだろう。僕自身はそう思っている。ただ,ここで間違えてほしくないのは,「寿下無」や俳句を覚えることそのものは,否定するつもりはないということだ。それが,子どもがおもしろいとおもって自分でオリジナルから切り出して覚えようとする限りにおいてだが。それが子どもの間でブームになって,競争的に行われるのもいいだろう。この場合,必ずオリジナルに帰る道が用意されているだろうから。いずれにしろ,大事なのは全体とのつながりだ。

最近の子どもたちにそのような全体論的なアプローチをとらせることが,社会環境的にも,教育環境的にもできていないので,手っ取り早くこのような素材を与えて,何とか日本語を守ろうという苦肉の策なのだろうが,それは,数学や物理で意味を考えさせずにマニュアルを与えてきて理数離れや学力低下を生んできたことと同じ結果になるのではないかと危惧するのは僕だけだろうか。真に重要なことは,学問や文化の意味をどのように文脈の中で伝えるかということなのではないだろうか。もちろん,マニュアルをきっかけにして本物に興味がわいてどんどんのめりこんでいくということがあれば文句はないのだけど。


■■2005年1月20日■■

予想通り,文科省大臣が随分短絡的なことを言い始めた。基礎学力をしっかりつけるために,学習時間の増加と総合的学習の時間の削減を検討するという話しである。このことについて言及する際に避けられないのが学力論議である。それはそもそも教育とはどのような営みなのかという根元的な問いでもある。どの段階で,どのような学力が身に付いていれば満足なのか。国際比較をするとしたら,どのような学力で比較すべきなのか。学力を育む学校環境,否社会環境はできているのか。学力について考えるための検討事項はあげればきりがないほど多い。

そうも言ってられないので,焦点を「いつごろどのような…」に絞ってみると,有馬元文部大臣・日本科学技術振興財団科学技術館会長のコメントが気にかかる。それは,成人の科学知識の話である。ゆとり教育が完成される前,日本の子どもたちが理科・数学ですばらしい成績を収めていた時期の大人,教科書も分厚く,授業時数も極めて多かった時代に学んだ大人の科学知識は,国際比較で言えばほとんど最低だという。これが,今から目指す学力像なのだろうか。もちろんはっきりしたことは言えないが,詰め込み教育,英才教育の問題点が如実に表れた調査結果ではないか。人より早く何かができるようになっても,その理解が実感を伴っていない場合,それは単に手続きを覚えただけにすぎない。忘れてしまえばおしまいだし,忘れやすいだろう。そして,それだけにとどまらず,興味や関心を伴っていない学習を続けることで,学問そのものに対する興味や関心を失ってしまう。このところ国際比較でいつも問題になる,理科や算数・数学への関心の薄さと符合する。

逆に,1933年のアメリカの8年研究,国立教育研究所が緒川小学校・卯の里小学校で行った追跡調査(1991年だったと思う),福岡県城南高等学校のドリカムプランの成果などについて見てみよう。8年研究では,テーマにそって学習内容を関連づけたカリキュラムで学んだ高校生の方が,大学に進んでから良い成績を上げている。国研の調査でも,オープンスクールで育った子どもたちの中学校以降,成人までの成績はかなり良い上,政治的な関心も高い。城南高校では総合的な学習のドリカムプランを始めて,自分を見つめる学習を続けた結果,公立大学への進学が飛躍的に増えた。総合的な学習に真剣に取り組んだ学校では,そういった数字に顕れない成果がいくらでも見つかる。子どもたちに,学ぶ意味,生きる意味を与えるのが,総合的な学習なのではないか。

この報道の影で全国紙でほとんどとりあげられていないのが,クルド人難民の強制送還の件である。国連難民高等弁務官事務所が,国際法に違反するとして懸念を表明している。基礎学力が高いはずの大人,それも超エリートの決定事項である。基礎・基本に学習を集中させて,よく整理され系統立てられた課題を解くことにだけ専心させると,社会の様子,政治,経済,宗教など,本来人間の生活にとってずっと重要なことに関心をもたなくなる。日本の中学生がどれだけ新聞を読んでいるだろうか。ニュースを見ているだろうか。成人した大学生がどれだけ選挙に行っているだろうか。むしろ,そういったことに興味を持って,より国際社会で人道的,主導的な立場に立てる国,より安全で住みよい国を作るのに参画することの方が,人間としての基礎・基本じゃないかと思う。総合的な学習で行われる環境教育,国際理解教育などは,その基礎・基本への架け橋なのではないだろうか。

今やるべきことは,そのような成果のあがる総合的な学習を,どうすれば全国展開できるかを考えることなのではないか。そのためには教科書が必要かもしれない。共通のワークシートが必要かもしれない。成果を認める社会的枠組み(受験なども含めて)が必要かもしれない。新しいけど根元的な学びをどうやって起こすのか,そこで培った学力にどうのように市民権を持たせるのか。そういった所に政策の思考を集中してもらいたい。


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