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これまでのもの

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メディアリテラシーに含まれる概念は幅広い。メディアの定義の理解,メディアを構成する要素の認知,メディアの社会的影響,メディア操作,メッセージの批判的理解,メディア理解に基づく行動変容など数え上げればきりがない。メディアリテラシー教育とは,顕在的なものであれ潜在的なものであれ,これら概念それぞれに対するカリキュラムあるいは実践を指すのだが,それぞれがバラバラに主張されているように思う。

これまでも,さまざまなメディアリテラシーの定義をレビューしてきたつもりだし,それぞれにその背景にのっとって考えると理解できるが,ある定義を採用すると別のものが漏れたりする不足感を感じてはきた。おりにふれ,なんとか自分なりに納得できる理解に至らないかと考えてきたのだが,昨日日本大学の小笠原先生が話していた“メディアデザイン”という概念を基に少しわかったような気がする。結局こういうことではないかと思う。

まず人とメディアの接触場面を多様に考える。メディアは何でもいい。人が情報を入手する対象すべてがメディアととらえればいい。その情報が意図的に伝えられるものであっても自ら構成すべきものであってもこの際気に留めないようにしたい。そして,メディアとの接触状況をインターフェイスと表現してみよう。このインターフェイスを自分自身でデザインする能力がメディアリテラシーなのではないか。メディアリテラシーが低いときは,インターフェイスは他者が設計したものに依存する。メッセージの発信者が意図したとおりに情報を受け取って行動せざるを得なくなる。しかし,自分自身で設計することができるようになると,必要なときは批判的にメッセージを理解できるようになる。必要がないとき,自らそう望むときには,批判的な態度はとらなくてもいい。このような柔軟性を含み込まないとメディアリテラシーをとらえきれないと思う。

今年の出来事でいえば,阪神ファンの多くはタイガース優勝のときの報道に自ら身を委ねる。いわゆる“メディアリテラシー”欠如の状態を自ら作り出すのである。しかし,イラク戦争や選挙の報道に関しては,逆にきわめて批判的に理解しようとする人たちがいる。“メディアリテラシー”レベルを最高に高めるのである。このような自在感を定義に盛り込むには,デザインという語がしっくりくるように思う。認知的,情緒的,美的,道徳的などさまざまな次元(*Potter参照)でメディアと自分とのインターフェイスをデザインできるようになることがメディアリテラシーを身につけるということなのだと思う。(2003.11.14)

検定外教科書「新しい科学の教科書ー現在人のための中学理科」(文一総合出版)が発売されたという。これは,新しい指導要領への移行にともなって内容が削減された中学校理科の教科書に対して,「義務教育段階の最低限の市民的教養,科学的リテラシー」を網羅したものとして,ページ数で約倍,文章量で約3倍のボリュームをもつものらしい。それが,実際にはどのような内容・記述になっているのかは,まだ手にしていないからわからないのでコメントは避けよう。

ここで気になるのは,同様の危機意識を,数学や国語,英語,社会の専門家たちも持っているということだ。さらに,音楽や美術などの芸術教科,技術・家庭科や保健体育科などでも同様だろう。こういった教科で,それぞれに検定外教科書が編纂されたらどいういうことが起こるのだろうか。実際に,そのようなボリュームを授業で扱うためには,授業時数を増やさなければならないのは明白だ。そうなると,毎日の授業が12限もあるような学校生活に変えなければならなくなるだろう。もっとも,塾も合わせれば,実際にそれくらいの授業を受けている子どもも少なからずいるのだろうが。

ここでの問題は,新しい指導要領の内容が足りないと感じた人たちが,どのようなアプローチをとるかということだ。検定外教科書という,いかにも物騒なアプローチは,確かに人目を引くし,実際にほとんどの新聞が記事として扱った。あまり事情に明るくない人々に対しては,検定外ではあるが「教科書」なのだから,実際にその教科書を選択できるという誤解も生むかも知れない。そして,まちがいなく教育関連の図書としては異例の販売部数になることだろう。でも,それが本当に彼らが望む結果なのだろうか。そして,われわれが望まなければならない結果なのだろうか。教育を考えるときには,子どもの発達や成長,生活全体を見通して考える必要がある。

科学教育の不足を憂う人たちは,限られた授業時数の中で,どうすれば科学に対する興味を引き出すかを考えるべきだ。日本では,『ネイチャー』を購読する人の割合がアメリカほど多くないという記事をどこかで読んだことがあるが,それが本当なら,そんなに科学への関心の低い社会の中で,科学に関心を持つ子どもを育てなければならないのだ。同時に,文章が書けない学生を心配する人たちも,本を読まなくなりつつある社会の中で,文章に興味をもつ子どもを育てなければならないのだ。学校教育で扱う内容を増やせばいいという問題では,全然ない。一人一人の興味を中核において,それを自分なりに拡げたり深めたりすることが可能になるための「ゆとり」,それを全うに評価して認めてやるための教育のシステム作りを,本気で考えなければならないところに来ているのだと思う。(2003.1.31)

日本人と法律上の婚姻関係があったタイ女性に対して,在留資格を認めない判決が最高裁で出た。婚姻関係は法律上まだ存続しているのだが,日本人男性が別の女性と同居を始め,結婚は事実上破綻していたということだ。一審は在留資格を認めない国を支持,二審は逆にタイ女性側を支持,最高裁で再度国を支持したということだ。そして,その論拠は,「婚姻関係があるだけで在留資格を与えれば,就労目的の偽装結婚が大量発生するおそれがある」からだという。

このケースそのものについては,これ以上のことを知らないので何も言うつもりはないのだが,毎日新聞によれば「地・高裁の裁判例で『法律上有効な婚姻関係があれば認められる』としたケースもあり,判断が統一されていなかった」このような事例についての(最高裁での)初判断となるそうだ。ということは,この判決がスタンダードになっていくということか。

しかし,逆に考えてみる必要もあるのではないだろうか。日本人と結婚した外国人女性は,在留資格を失うことをおそれて,夫に対して意見することもできず,ただ服従するだけになってしまうことがあるのではないか。特に在留資格にこだわらなければいいということもあるのだろうが,在留資格を失ったときに,すでに日本で生活基盤を築いていて,母国に帰っても生活がなりたたない人の場合,どう判断すべきなのだろうか。

つまるところ,スタンダードに基づいてケースバイケースで判断が下されていくのだろうか,その判断が非常に厳しく行われているらしいことは,さまざまな報道から透けて見えるし,実際に友人が中国人と結婚する際の在留資格延長手続きでは目の当たりにした。指導していた留学生のケースでも,どのような就学状態なのかを記した文書をつくるはめになったこともある。難民の受け入れについても,同様のことが頻繁に問題になっている。

20年も前に国連難民条約も批准している日本なのだから,ますますボーダレスになりつつある世界の中で,スタンダードの一人歩きを許さず一人一人の“人”の立場で処遇を判断できるようにならないと,国の文化度を問われることになるにちがいない…もう疑われているようでもある。(2002.10.17)

拉致問題もまた,メディアについて考えるいい機会を提供してくれた。小泉首相訪朝前に国交正常化交渉の前提条件とされた“安否情報”が得られたにもかかわらず,その内容があまりに衝撃的だったために,メディアは一斉に訪朝の意義に疑問をあびせはじめた。その非難は,家族の声として繰り返し報道される。そして,各局のさまざまな番組のキャスターは国民を代表したつもりで“国民の気持ちを考えていただきたい”などとコメントする。

しかし,国民の気持ちは全く一様ではない。実際,訪朝を評価する率はかなり高い。これまで拉致問題のめどがたたなかったのは,国交がなく国際政治的にも経済的にもまだもちこたえてこれたからだと考える人。拉致問題の解決のためには国交が不可欠だと考える人。逆に,拉致問題を優先すべきだと改めて思った人もかなり多い。経済的援助を本当に必要としているらしい今だからこそ,拉致問題を一気に解決できるのではないかと考える人。そもそも,この時代に国家的犯罪としての拉致など,決して許せないと考える人。様々だ。さらに,日本国籍をもつ在日朝鮮人の方々はまたちがった考えや感情を持っているだろう。

それにしてもやりきれないのは,被害者家族の感情をもてあそんでいるように見えるマスメディアのあり方だ。感情をあおり態度を硬化させているのは,実はメディアなのではないか。そして,その結果を“家族の言葉”,ひいては“国民の気持ち”として報道する。スタジオに呼んだコメンテーターの,異なる立場からの発言がそれと食い違っていれば,あっさり無視して通り過ぎる。一定の結論に向かって,登場するほとんどの人の発言が,いつのまにかメディアに“構成”されてしまっているように思える。

一番まともにみえるのは,北朝鮮が報道した「日本人数人が死亡したことをもって日本側が度を越した騒動を起こしては,事態を収拾できない状況に追い込みうる(朝日新聞, 2002.9.27朝刊)」という警告ですらある。相互に感情を高ぶらせていくと,トレードオフがますます深刻になるというのが,唯一の真実のような気がしてくる。(2002.9.27)



教育実践総合センターには,学外の人を講師として呼んでくるための「講師等旅費・謝金」という予算がある。センターで実施しているセミナーなどに,オピニオンリーダーや教育実践者たちを招聘して話をしてもらうためには,非常に有効である。ただ,使いにくいこともあることがわかってきた。

教員のための大学院大学がある。現職の教師たちは,全国から受験して合格すれば,この大学院で内地留学生として2年間研鑽を積む。サバティカル・イヤーのとれない現場教師たちにとっては,貴重なスキルアップの期間である。もっと多くの先生が,この時間をもてればいいと思う。

ところで,セミナーにここに在籍する現職の大学院生を呼ぶとする。彼らは,教育の課題に関心を持ち,大学院で最先端のことを学んでいる。セミナーで話をしてもらうには,最適な人材である。しかしおそらく,本務校の校長に出張依頼を出すと,内地留学先が大学院になっていて他所への留学は認められないという理由で出張させてもらえない。仕方なく,出張の依頼を大学院の指導教官宛に出すことになる。 ところが,先の「講師等旅費・謝金」の旅費は,大学院生宛には払えないのである。旅費を払うためには,所属を本務校の教諭として,校長宛に出張依頼を出さなければならない。かくして,彼らを講師として呼ぶことには,かなりの困難が伴う。別の所から工面するはめになる。

国の予算には,実体に合わなかったり,常識にそぐわない規制があって,自由に研究活動や教育活動を行うことを妨げられることがかなりある。もちろん,規制の存在理由はあるわけだが,悪意のある向きはどんなに規制してもその裏をかくものだ。そういう人のために規制の壁を高くするよりも,むしろ,研究や教育の成果を優先するような制度にはならないものだろうか。(2002.3.9)



2月5日,岡山の平福小学校に行って来た。自主公開研究会である。ここの先生方には,ずいぶんお世話になっていて,NHKの共同学習プロジェクト関連の授業もあるし,是非参観したかった。結論から言うと,さすが!

東京の南砂小学校とのテレビ会議の授業があった。NHKのプロジェクトのクラスである。今年は,共同学習が高じて,ついに本の出版に行き着いた。こどもたちが企画し,原稿を依頼し(された!),編集し,出版する。その過程で出版社に勤める編集者から,多くを教わる。でも,一番教わるのは,人の文章を直す体験からだろう。自分自身の体験で悪いが,中学校の時に学年文集の編集をやった経験によって,今があると思っている。3年間に5冊出したと思う。最後の3冊は,編集,校正など,ほとんど全部一人でやった。そのときに得たのが,文章のロジックを通すセンスと,わかりやすい文章を書きたいという欲求である。おそらく,平福(そして南砂)の子どもたちも,同じようなことを感じると思う。それはともかく,この日のセッションは,テレビ会議がオンの時は司会者(この子がよく切れる!)の元,てきぱきと話が進み,学級内での話し合い(各班にゲスト・ティーチャーが入る)でも,白熱した論議が起こっている。このコミュニケーションは,普通じゃない。

もう一つ,国際理解の授業で,先輩の学習成果をつぶさに調べて,自分たちは何をやっていくかを考える授業が印象的だ。実は,総合的な学習の成果を資料として残すという動きはあちこちであったのだけど,それは危ないと思っていた。総合的な学習では,疑問をもつ→調べる→まとめる→発表する,という流れが重要だ。しかし,同じ地域で疑問がそういくらでも出てくるとは限らない。先輩がやったことを知ってしまうと,かえって疑問が限定されてしまうのではないか,と思っていたのである。しかし,過去5年間ぐらいの資料を調べて,それを壁新聞にまとめ,さらに自分たちがやるべきことを考え出していた。できるんだ!

最後に,評価の話。平福の評価方法は,「機能的学力(問題解決に使われる学力だけど,実体として測れないメタな能力)」を重視し,それを観点別に項目化・レベル化する。アメリカでルブリック(評価指標)による得点化をやっているグループがあるが,それに近い。僕自身は,どの評価基準(指標)に達するとどのレベルというような対応付けは難しいと思っていて,そこはなんとなく主観的に3段階程度で評価する方が現実的だと思っている。でも,実際にやってみて,どっちがどれくらいしっくりくるかつきあわせるのも重要だろう。また,話しに行こう。

もう一つ,総合的な学習では,知識や技能も重要なねらいになるべきだと思う。所謂,実体的学力だ。実際,平福の子どもたちが総合の時間に書いたメモ,壁新聞,議事録などは,ものすごい量の字で埋まっている。これだけの字数を,国語の時間だけでは書き得ないだろう。そして,内容も。教科で扱いきれない事柄を,よく学んでいる。これを正当に評価してあげたい。そして,それは学力低下論をぶつ人たちに対するアカウンタビリティになるだろう。この学校では,実体的学力も,機能的学力も,総合的な学習の時間で育っている。そんなことは資質のある教師にだけしかできないのだから実現不可能だと言うより前に,その資質をどうしたら全教師がつけられるのかを考えるのが,筋じゃないのだろうか。平福小学校には,どうやって二つの学力の両全を図ったのかを見せて欲しいし,学力低下論者には,それを見た上で論をたてて欲しい。(2002.2.7)



珍しく政治ネタ。田中外相が更迭された。この人の使う比喩は刺激的・攻撃的すぎるとは思っていたが,今回のことには疑問を感じる。明けた1月30日の街頭インタビューでは,やはり大半の人が疑問を表明していた。しかし,中には3割ほど更迭に賛成する人たちがいる。

「外務省が機能しなくなっていたのだから,正常化することの方が,田中外相よりも大事」という論理のようだ。しかし,外交機密費をはじめとして,田中外相以前の外務省が機能していたということはあるのだろうか。アメリカやドイツの外交と比べて,日本の外交には見劣りはしなかっただろうか。今回のアフガン復興会議の成功も,外務省というよりは,むしろ緒方前国連高等弁務官の働きと信念に負うところが多い。

今すべきことは,一刻も早く外務省を「構造改革」して,外務省が「機能」するようにすることだったのではないだろうか。そのために投じてきた田中外相の石は大きいし,それゆえわれわれの耳目にさまざまなできごとが届いてきた。この功績を評価すべきではないのだろうか。

ところで,どうして大西健丞ピースウィングジャパン代表を喚問しなかったのだろう。メッセージを伝えられた人をはずして議論したって,不毛だろう。国会が紛糾したのも,この対立を避けたからではないのか。もっとも,そんなことをすると体面まるつぶれの人が出てきて,それは政権を危うくするということだったのかも知れない。この議会運営にこそ,第三者(第四者?)の意図を感じざるを得ない。(2002.1.30)



文部科学省が,「学びのすすめ」というアピールを出した。これを「方針転換」だと指摘する声が,例によっていくつかのマスメディアであがっている。いいかげんに,基礎・基本の徹底路線と,個性・ゆとり重視の二極対立の論理から抜け出せないのだろうか。朝日の社説は,「教科か、総合的な学習かではなく、二つが両輪のようにかみ合ってこそ、学ぶ意味や喜びを感じられるのではあるまいか」と,きわめてまともな社説を載せている。納得できるし,文科省もわれわれもずっとそう言ってきた。

ただし,教科書検定問題は,かなり微妙だ。教科書は学習指導要領の内容に基づいて検定されている。それを越える発展的な内容をも,学校で扱うことを推奨するとなると,教科書にも発展的な内容を載せていいことになるのかどうか。実際には,教科書は学習指導要領の内容にとどめておいて,必要に応じて発展的な教材やその解説を与えるということになるのだろう。教科書会社には,そういった教材をいろいろな方向性,難易度でもって作成して,ウェブから利用できるような工夫をして欲しい。同時に,教科書に書かれている基礎・基本を別の角度から定着させるような教材や解説もあったらいい。

ところで,同じ「学びのすすめ」に「スーパー・サイエンス・ハイスクール」や「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」といった構想が出ている。科学教育や英語教育に力を入れる高校を作るという発想だ。どうして科学教育ばかり強調するのだろう。確かに,理科離れは現象としてあるのだが,そもそも“学問離れ”が問題なのに。「総合的な学習の時間」などを利用して,学ぶ意欲を育成することは重要だが,そこで掘り起こした興味に応じて,でさまざまな進路に応じてニーズにあった学習機会を提供することも考えなければならない。そうすると,「スーパー・文学・ハイスクール」とか「スーパー・伝統芸能・ハイスクール」,「スーパー・伝統工芸・ハイスクール」といった構想も考えられるだろう。語学にしても,英語だけでなく,韓国語,中国語,ラテン系言語,ドイツ語などのさまざまなコースを用意したい。

スーパー・文学・ハイスクールの生徒が直木賞候補になるとか,高校生の時から会議の通訳ができる生徒が出るといったような世の中が来るとたいしたもんだ。(2002.1.23)


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